乳がん治療の記録

がん告知、病院スタッフ側の視点と私の視点

2017/03/15

29歳で出産と同時にがん発見と、癌告知の時の自分と家族の様子は、別記事:子の誕生と同時に乳がん発見と癌告知。に少し書きました。あれから15年、客観的に振り返り、病院側視点で私への癌告知はこうだったなぁという事を綴りたいと思います。

スポンサーリンク

健康な母子の産科病棟に入院していたから癌が珍しい

私に癌がある事は、出産の時まで誰も知りませんでした。癌発見時は総合病院の「産科」に入院していました。「婦人科」の患者さんや、ハイリスクの妊産婦も居ません。ですので、ここの助産師さんや看護師さんは感動もあるいは悲しみに添う事も沢山経験しているだろうけれど、癌の患者さんの対応をすることはあまりはないのだと思いました。

そこは健康で出産を迎えた人の集まりで、母乳育児の心構えなどを、わりとスパルタ的に指導する病院でした。でもそれは、時代がそう求めていたのでしょうし、病院が用意したスパルタ的な事を望むという事を、私が入院前の調査書に書いたように添ってくれているのです。母子同室の相部屋の中、眠れない人、我が子や隣の子の泣き声で寝させてもらえない人、など様々ですが、そんな中、母乳を促進するマッサージを熱心にしていただき、厳しさが愛のようにも思えました。

お産が長引いて何日も寝てない体力が果てている人も同じ扱いとなります。退院したら寝てられなくなるので、うまく体力の回復がはかれない人はこの5日間という入院中に寝ておくべきではないだろうかと私は思います。母乳育児に弱音を吐いた人に対して、「そんな事で母親がつとまるのか。」という雰囲気を出しているように見えるスタッフもいました。

これがよかった、感謝、感激だと思う人も多いと思いますが、私が望んでいる事とは少し違いました。
一方、この病院に入院して丁寧なマッサージを受けていなければしこりを発見することはなく、私は今存在していないかもしれない。結果、私はこの病院に命を救われているのですから、このスパルタだのなんだの言われる筋合いどころか、命の恩院と感謝し続けなければならないでしょう。

私は出産した日、しこりを発見してすぐに細胞を採る検査をしたのですが、その直後に急に助産師さんや看護師さんの厳しい態度がうって変わって優しく豹変しました。細胞診の検査結果がすぐに出るはずはありません。のちに、細胞を採った医師に聞いた話によると、細胞を採る為針を刺した段階で、「あまりよくないものかも…」と予感したため、これまでしていた母乳を促進させるマッサージをしないよう産科病棟に指示した事が分かりました。

担当の助産師さん以外の人も私のところへ訪れるようになりました。「しこりを触らせてください。」と言います。良性にしても、悪性にしても、偶然見つけたこの経緯は、私のようにまた偶然誰かが救われるヒントにかもしれないのだから、どんなものか生の事例を一回触って勉強しておくという熱心な正義の医療だと思います。ですが、拒否はしませんでしたが、他の誰かが助かってほしいなどと思う正義の心、余裕の心はその時の私にはありませんでした。

退院の時に看護師長が挨拶で声を震わす

「明日また検査結果聞きに来てね。大丈夫よ!大丈夫!。」そう声を震わせながら他の退院者よりもあからさまに手厚く見送られました。慰める時、「大丈夫」という言葉を使う医療従者は昔は沢山いました。

これまで毎日退院していく人を見ていたのですが、看護師長が出てきたのはその時初めてでした。後から聞くと、この退院の日の午前中、私の家族だけが主治医に呼ばれ、癌であることを前もって告知されていたことが分かりました。

看護師長は癌だと分かっていて、私を手厚く見送りに来た、そんなところでしょうか。スタッフが普段厳しい姿勢で産婦さんに接しているため、さりげなく対応を切り替えるのが難しく、あからさまになってしまったのだと思いました。

慣れた仕事なのに癌告知しながら涙を流す医師

泣く医師
退院の翌日、乳腺外科へ再来院して癌告知を受けました。その時、プロである外科医が涙を見せたのです。もちろん、医師も人間です。私は人間に治療をしてもらいたいので、それはありがたい事だと思います。

けれど、私の状態はそんなに悪いのか。と一瞬思いましたが、いいえ、それは、一緒に診察室に入っていた母と「癌告知劇場」をして泣かせるムードを作ったからだと思います。

「残念ながら、検査結果はクラス5、癌でした」そう言われ、

私は(連れてきてはいなかったけれど)生まれたばかりの子供の名前を叫び、私の母はその場でよよよと泣き崩れる。テンションの高いベタなドラマにありがちな劇場をやってしまい、医師に涙を流して劇場に参加しなければならないムードを押し付けた気がします。結果が癌である事は、上に書いたとおり、産科に入院中にあからさまに優しくしてくださったので予測出来たのですが、心の底では、癌でない事を信じていました。容易に受け止められる事は出来ないながらも、予想が外れたという事もないという状況から、自然に「劇場」をする運びとなったのです。一幕おりると、大変お騒がせしましたm(__)m撤収しまーす。と帰った感じです。

感情的に告知されると、心がこもっている、配慮を感じると思う人もいるし、淡々と話されると冷静になれて、その道のプロに安心して命を預けれると思う人も居ると思います。私は、そのどちらでもありませんでした。やはり、「癌である」という事実そのものが100%を占め、その言い方、ましてや今後の治療方針など、その時はどちらでもよかったというのが本音です。

そして、15年もお世話になった今思う事、1年に一回の定期検診に行った時、

「お子さんは○○歳になりましたね。」

と言ってくれる配慮は、私の癌の発見日と、子供の誕生日が一緒だという事を、覚えて気にかけてくれている、医師と患者が月日を共に戦い、共に感じてくれている。そんな気がしてなんだか嬉しいし、改めて感謝できるひとときです。

15年経って客観的かつ、ごく冷静に思う事があります。医者は泣いた後の顔で次の患者を診たと思うのだが、患者は戸惑わなかったのでしょうか。でも多分、私だったらこう思うでしょう。外科医だから、オペや診察などで、目が充血するほど疲れているのだなと。

病気の治療はそれなりのスタッフが淡々と

医師の涙はそれきりです。これから先は、「患者」しかいない病棟に入院したので、病人を扱う事が日常茶飯事のスタッフに、適切に淡々とお世話していただきました。放っておいてほしい時は絶妙に放って置いてくれて、体の事は離れたところからも気にかけてくれている。家事もせず寝ていていい。その安心感と気を使わなくていい場所は産科とちがって、怠け者の私にとっては居心地はよい場所でした。


以上、以前書いた癌告知の記事:子の誕生と同時に乳がん発見と癌告知。から、さらに病院側の視点を含めた思い出したことを綴りました!

                      

-乳がん治療の記録